2008年 12月 10日
戒厳令27周年 |
3日後に戒厳令布告27周年を迎える。ひと月前の新聞を読んでいたら、エッセイストで歴史学者、グダンスク大学教授のステファン・フヴィンの「制服姿の隣人」という題の記事に出くわした。彼はこう問いかける。12月13日の夜中に人々を監禁し輸送したことは、例えばリリアナ・ソニク(当時の反体制派、夫も反体制派)が、ドアが破られ夫は(彼女の表現によると)「未知の運命へと」運ばれていった、と書いて示すほどの悲劇だったのか、と。
ここで俺はステファン・フヴィンが正しいと認めなければならない。なぜなら20世紀には多くの国でしばしば「未知の運命へと」運ばれていくことは拷問と死、帰りのない道を意味したからだ。自分はアウシュヴィッツとホロコーストの記憶を受け継いでいるし、アルゼンチン、チリ、ボスニア、チェチェン、最近ではグルジア、の直接の記憶もある。
俺は12月13日の夜中に家から連れ出されたわけではなく、半年後、娘の誕生日プレゼントを買いに出たときに通りで捕まった。だが、どのような捕まり方で勾留収容所に行き着いたかには関係なく、我々のうちだれひとり拷問を受けたり、ヘリコプターから海に投げ込まれたりした者はなかったし、知らせもなく姿を消した者もなかった。我々はまずまずの状態で家に戻った。実際、警察署で殴られることはあったが、勾留センターではそうしたことは一切無かった。俺にとっていちばん辛かったのは、普通の囚人と違い、我々は解放の期限を知らなかったことだ。
フヴィンはこう書いている。ひょっとしたら警察とZOMO [市民警察機動予備隊] は何千人もの人々を「未知の運命へと」押し込みながら、逆説的に彼らをよりひどいものから救ったのかもしれない。なぜなら東の国境の向こうには我々の抗議を喜んで血の海に沈めようとする人たちが相当数いたのだから、と。彼の意見はたぶん正しい。
ここで俺はステファン・フヴィンが正しいと認めなければならない。なぜなら20世紀には多くの国でしばしば「未知の運命へと」運ばれていくことは拷問と死、帰りのない道を意味したからだ。自分はアウシュヴィッツとホロコーストの記憶を受け継いでいるし、アルゼンチン、チリ、ボスニア、チェチェン、最近ではグルジア、の直接の記憶もある。
俺は12月13日の夜中に家から連れ出されたわけではなく、半年後、娘の誕生日プレゼントを買いに出たときに通りで捕まった。だが、どのような捕まり方で勾留収容所に行き着いたかには関係なく、我々のうちだれひとり拷問を受けたり、ヘリコプターから海に投げ込まれたりした者はなかったし、知らせもなく姿を消した者もなかった。我々はまずまずの状態で家に戻った。実際、警察署で殴られることはあったが、勾留センターではそうしたことは一切無かった。俺にとっていちばん辛かったのは、普通の囚人と違い、我々は解放の期限を知らなかったことだ。
フヴィンはこう書いている。ひょっとしたら警察とZOMO [市民警察機動予備隊] は何千人もの人々を「未知の運命へと」押し込みながら、逆説的に彼らをよりひどいものから救ったのかもしれない。なぜなら東の国境の向こうには我々の抗議を喜んで血の海に沈めようとする人たちが相当数いたのだから、と。彼の意見はたぶん正しい。
by nagamimi_2
| 2008-12-10 20:00