2008年 10月 26日
ペカオ商品券 |
ドルその他の外貨のほか、我が国の闇市場ではペカオ商品券が機能していた。これは粗末な紙の切れっぱしだったが、大した価値があった。なぜかというと、様々なドルの金額が書かれていて、これでもってペヴェックス、もしくはバルトン Balton で買い物をすることができたのだ。ドルとは違い、これは合法的に売買することができた。新聞には「商品券売ります」や「商品券買います」といった内容の広告がたくさん出ていたが、広告主と連絡と取ってみると、しばしばドルのことだったりした。
この商品券はどこから来るのか? これは外国と契約した社会主義諸国労働者の報酬であった。彼らは働いた国のお金で給料を受け取っていたが、そこから一定額をドル建て商品券に充てることができた。いわゆるドル通貨圏における勤労者はドルを受け取っていた。1970年代と80年代の狭間、例えばポーランド人はイラクで400ドル稼いでいたが、いっぽう同じ工事現場で同じことをするフランス人は1500ドル以上の稼ぎがあった。ポーランド人の稼ぎの大部分は国が取り上げていた。こうした国家によるピンハネは、それでも契約仕事をする幸せ者には適していた。なぜなら国内の稼ぎはよくてもせいぜい約30ドル相当にしかならなかったからである。
当時の俺の義兄は、サダム・フセインがイランと戦争を始めたときでさえ、他の者たちとともに帰国せず、ときどき爆弾の飛び交う下で働いた。それほどドル建ての給料が惜しかったのだ。そういう仕事を1年やると、社会主義国の国民は自分が金持ちで、世慣れた人になった気がしたものだ。
この商品券はどこから来るのか? これは外国と契約した社会主義諸国労働者の報酬であった。彼らは働いた国のお金で給料を受け取っていたが、そこから一定額をドル建て商品券に充てることができた。いわゆるドル通貨圏における勤労者はドルを受け取っていた。1970年代と80年代の狭間、例えばポーランド人はイラクで400ドル稼いでいたが、いっぽう同じ工事現場で同じことをするフランス人は1500ドル以上の稼ぎがあった。ポーランド人の稼ぎの大部分は国が取り上げていた。こうした国家によるピンハネは、それでも契約仕事をする幸せ者には適していた。なぜなら国内の稼ぎはよくてもせいぜい約30ドル相当にしかならなかったからである。
当時の俺の義兄は、サダム・フセインがイランと戦争を始めたときでさえ、他の者たちとともに帰国せず、ときどき爆弾の飛び交う下で働いた。それほどドル建ての給料が惜しかったのだ。そういう仕事を1年やると、社会主義国の国民は自分が金持ちで、世慣れた人になった気がしたものだ。
by nagamimi_2
| 2008-10-26 20:00