2010年 05月 17日
さらにヴォイテクについて |
1947年、別れの時が来た。スコットランドのキャンプは解散し、ヴォイテクをどうしたらよいのかよくわからなかった。ポーランドに連れていく? どうやって? 共産主義政権はアンデルス軍の兵士たちを敵と見なしていた。どうやって帰国するのか? クマといっしょに? スコットランドに残る? でもどこに?
結局ヴォイテクはエジンバラの動物園に寄贈することになった。11月15日、動物園の管理者たちは新たな動物を受け入れ用のしかるべき装置を用意してクマを待っていた。だがそんな装置は必要なかった。兵士がひざまずいて後肢の鎖をはずそうとすると、ヴォイテクは兵士の顔を舐め、みずからすすんでケージに入った。それからようやく周囲を見回した。兵士たちが立ち去るとしばらく悲しげに鳴いていた。
兵士たちがヴォイテクに会いに動物園に行くと、柵の中に入ってもよかった。管理者たちはぞっとして、観客は大喜びで、兵士らがヴォイテクと格闘するのを眺めた。兵士の1人はヴァイオリン持参で、クマに曲を聞かせてやった。するとクマは脚を前後に動かすのだった。
しかしヴォイテクはもうかつてと同じクマではなく、その振る舞いには悲しみが勝っていた。他のクマと共用の飼育場にいたが、仲間といるのは好まなかった。飼育場の真ん中にある岩山によじ登って、その上でまどろんだ。
ポーランド語を聞くとたちまちそこから下りてきた。ある女性は1961年に訪れたときのことをこう回想する。「3頭のクマが岩山の上に寝そべっていました。観客がいくら呼びかけてもクマは1頭も振り向こうとしませんでした。でも夫がポーランド語で呼んだら、ヴォイテクが頭をもたげ、下に降りて柵に近付いたのです」
今日エジンバラ動物園にはヴォイテクがいた痕跡はなく、ただインターネットのページに最も有名な住人として言及されているだけである。動物園に30年来勤めるレイモンド・ラッセルによると、ヴォイテクの話を刻んだ記念碑があったのだが、どうやら1983年の改築工事中に盗まれてしまったようだという。
つづく。
結局ヴォイテクはエジンバラの動物園に寄贈することになった。11月15日、動物園の管理者たちは新たな動物を受け入れ用のしかるべき装置を用意してクマを待っていた。だがそんな装置は必要なかった。兵士がひざまずいて後肢の鎖をはずそうとすると、ヴォイテクは兵士の顔を舐め、みずからすすんでケージに入った。それからようやく周囲を見回した。兵士たちが立ち去るとしばらく悲しげに鳴いていた。
兵士たちがヴォイテクに会いに動物園に行くと、柵の中に入ってもよかった。管理者たちはぞっとして、観客は大喜びで、兵士らがヴォイテクと格闘するのを眺めた。兵士の1人はヴァイオリン持参で、クマに曲を聞かせてやった。するとクマは脚を前後に動かすのだった。
しかしヴォイテクはもうかつてと同じクマではなく、その振る舞いには悲しみが勝っていた。他のクマと共用の飼育場にいたが、仲間といるのは好まなかった。飼育場の真ん中にある岩山によじ登って、その上でまどろんだ。
ポーランド語を聞くとたちまちそこから下りてきた。ある女性は1961年に訪れたときのことをこう回想する。「3頭のクマが岩山の上に寝そべっていました。観客がいくら呼びかけてもクマは1頭も振り向こうとしませんでした。でも夫がポーランド語で呼んだら、ヴォイテクが頭をもたげ、下に降りて柵に近付いたのです」
今日エジンバラ動物園にはヴォイテクがいた痕跡はなく、ただインターネットのページに最も有名な住人として言及されているだけである。動物園に30年来勤めるレイモンド・ラッセルによると、ヴォイテクの話を刻んだ記念碑があったのだが、どうやら1983年の改築工事中に盗まれてしまったようだという。
つづく。
by nagamimi_2
| 2010-05-17 23:56
| 歴史