2010年 05月 15日
続々々・ヴォイテクについて |
ヴォイテク Wojtek は兵士たちとともにグラスゴーからバーウィック・アポン・トゥウィード近郊のウィンフィールド・キャンプに移った。ポーランド人たちはここで国からの知らせを待ちながら、英語を学び(「ポーランドに帰りたい奴はロシア語を学べ!」)、新聞を読み、クマと遊んだ。彼らはクマといっしょに近所の池で泳いだ。
キャンプのバラックが建っていた土地の農場主、アイリーン・オー Aileen Orr は、今日までポーランド兵士とクマのことを思い出す。クマがもたれるのが好きだったドアの爪痕まで見せてくれる。祖父からヴォイテクの話を聞いたとき、アイリーンは十数歳の少女だった。
祖父が初めてヴォイテクに会ったとき、馬に与えるように手のひらにキャンディーをのせてクマに差し出した。ヴォイテクは前肢を伸ばしてデリケートにキャンディーを取ると、鼻面を突っ込んだ。その後は祖父を見かけるたびにいつもじっと見つめていた。たとえ祖父が軍服を着た兵士たちと同じく集団で歩いていても、つねに祖父を見つけ(嗅ぎ分け)、二本脚で立って、祖父に向かってうなずいた。ヴォイテクがご執心なのは無論食べ物だった。
地元の女たちはヴォイテクの好物のケーキを焼いた。それにジャム。祖父はこう回想した。「そりゃもう、奴のジャム好きといったら!」
ヴォイテクは申し分なく栄養が行きわたり、身長180cm、体重250kgだった。兵士たちとともに近くの町バーウィック・アポン・トゥウィードまで歩いていき、オー女史が言うように、地元のパブによく出かけたものだった。
ヴォイテクは有名で、記者たちがやって来て「ヴォイテク Voytek」の話を書いた。イギリスの雑誌「ウォー・イラストレイティッド War Illustrated」にはクマの上に座った兵士の写真が載った。
地元のポーランド・スコットランド協会はヴォイテクをメンバーとして迎えた。クマの世話係、ピョトル・プレンディシュ Piotr Prendysz が路上でだれかに会うと、クマの肩に手を置いておしゃべりを始めた。ヴォイテクは会話に耳を傾けているかのように、すぐに腰をおろした。彼の記念像もそんな姿になるだろう。アイリーンにはすでに彫刻の計画もあり、そのための資金を集めているところだ。
つづく。
キャンプのバラックが建っていた土地の農場主、アイリーン・オー Aileen Orr は、今日までポーランド兵士とクマのことを思い出す。クマがもたれるのが好きだったドアの爪痕まで見せてくれる。祖父からヴォイテクの話を聞いたとき、アイリーンは十数歳の少女だった。
祖父が初めてヴォイテクに会ったとき、馬に与えるように手のひらにキャンディーをのせてクマに差し出した。ヴォイテクは前肢を伸ばしてデリケートにキャンディーを取ると、鼻面を突っ込んだ。その後は祖父を見かけるたびにいつもじっと見つめていた。たとえ祖父が軍服を着た兵士たちと同じく集団で歩いていても、つねに祖父を見つけ(嗅ぎ分け)、二本脚で立って、祖父に向かってうなずいた。ヴォイテクがご執心なのは無論食べ物だった。
地元の女たちはヴォイテクの好物のケーキを焼いた。それにジャム。祖父はこう回想した。「そりゃもう、奴のジャム好きといったら!」
ヴォイテクは申し分なく栄養が行きわたり、身長180cm、体重250kgだった。兵士たちとともに近くの町バーウィック・アポン・トゥウィードまで歩いていき、オー女史が言うように、地元のパブによく出かけたものだった。
ヴォイテクは有名で、記者たちがやって来て「ヴォイテク Voytek」の話を書いた。イギリスの雑誌「ウォー・イラストレイティッド War Illustrated」にはクマの上に座った兵士の写真が載った。
地元のポーランド・スコットランド協会はヴォイテクをメンバーとして迎えた。クマの世話係、ピョトル・プレンディシュ Piotr Prendysz が路上でだれかに会うと、クマの肩に手を置いておしゃべりを始めた。ヴォイテクは会話に耳を傾けているかのように、すぐに腰をおろした。彼の記念像もそんな姿になるだろう。アイリーンにはすでに彫刻の計画もあり、そのための資金を集めているところだ。
つづく。
by nagamimi_2
| 2010-05-15 22:22
| 歴史