2010年 03月 17日
「小さなモスクワ」 |

彼は幼年期とごく若い頃をこの当時の人口10万人の都市で過ごした。そこに6万人のソヴィエト人が駐屯していたのである。そこにはヨーロッパ最長の滑走路の1つと36基の航空機用対原爆シェルターがあった。だが人間用シェルターは1つもなかった。
駐屯地からの外出が禁止されていたにもかかわらず、兵士たちは民間人の服装で外に出て、ポーランド人と会ったり、飲み屋で飲んだりしていた。ポーランド人たちは〈ロシア・ゾーン〉への入場禁止にそむいた。とりわけ子供と若者は。
ロシア人兵士と彼らの女たちによってレグニツァのバザールに持ち込まれる金や腕時計、その他の品物の闇商売が栄えた。
何年も経ってから監督にインスピレーションを与えたのは、以前耳にしたロシア人パイロットの妻とポーランド人将校との禁じられた愛の物語だった。
〈スキャンダル〉が広まるとリディア・ノヴィコヴァ Lidia Nowikowa(映画ではヴィェラ)はモスクワへの帰還を命じられたが、自殺する方を選んだ。彼女の墓は今日までレグニツァのロシア人墓地にあり、住民たちの崇拝と世話に取り巻かれている。
クシステクが脚本を書き、こうして映画「小さなモスクワ」ができあがった。ベラルーシのミンスクに住む彼女の息子は、映画を見てからこのことを知った。彼はレグニツァ市長に、その出来事の証人たちに会いたいという旨の手紙を書いた。母親が死んだとき彼は8歳だったのだ。
タデウシュ・クシャコフスキ Tadeusz Krzakowski 市長はノヴィコフとクシステクをレグニツァに招待した。リディアの恋人だったポーランド人も現れるのでは、と期待する人もいる。
プラットフォームと線路の上にガラス張りの屋根がある旧ドイツ領のレグニツァ駅を幾度か通過したことがあるが、1971年に俺は3人の友人とともに市街に出た。ヴロツワフ行き(そこからクラクフへ)の列車が出るまでに数時間しかなかったから、あちこち見て歩いたわけではない。
憶えているのは公園で飲み干されたワインと、道路にロシア軍の車両がかなりあったことだ。当時その物語が展開していたわけで、きっと様々な別のドラマもソヴィエト・ゾーンの壁と有刺鉄線によって隠されていたのだろう。
現在のレグニツァはまったく違う都市だ。年輩の住民たちのなかには〈ロシア人〉との金の商売の時代を懐かしく思い出す人もいるとはいえ。
by nagamimi_2
| 2010-03-17 21:41
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