2009年 08月 02日
ワルシャワ蜂起記念日 |
昨日はワルシャワ蜂起勃発から65周年の記念日だった。ワルシャワ蜂起はドイツ占領者に対するヨーロッパにおける最大の抵抗運動であった。この蜂起は約18000人の蜂起者と不幸にして約200000人の市民の命を飲み込んだ [死者数については諸説ある]。長年、さまざまな論者が互いに次のような問いを投げかけてきた。これはヒロイズムだったのか、それとも不要な狂気の沙汰だったのか。
AKの印のもと戦った、いまも存命中の蜂起者を評価するには俺は若すぎるが、しかし彼らの側からすれば膨大なヒロイズムのことを言わないわけにはいかないし、蜂起者・詩人カミル・バチンスキ Krzysztof Kamil Baczyński とガイツィ Tadeusz Gajcy の詩について考えないわけにはいかない。この英雄的精神は幸い、ワルシャワで記念日関連のコンサートや他の催しに参加している今日の若者たちも評価している。
しかし、俺やその他のもう少し年輩で歴史に自覚的な人たちは、AKのワルシャワ蜂起者たちが戦ったのは自由なポーランドを求めてであって、自由なワルシャワだけを求めたわけではないと知っている。だが当時、1944年8月、ヴィスワ川の対岸には赤軍がいて、遠くから戦闘を眺め、その後、徹底的に破壊される街を、空爆を、住民の殺害を見物していたのだ。彼らは一歩たりとも動かなかった。だがそれでよかったとも思う。我々は彼らに何一つ感謝する必要はないのだから。
その後、我々の将来を形作ったのがテヘランとヤルタの三首脳会談* [テヘラン会談とヤルタ会談] であった。こうしてポーランドは我々国民の同意なしにソヴィエト圏に組み込まれ、ほぼ半世紀に渡る破滅に向かった。
そして俺や俺の同国人のうち自覚的な人たちはこの年月、精神的にも肉体的にも苦しんだのである。
*三首脳―ルーズベルト、スターリン、チャーチル(テヘラン、その後ヤルタにおける、いわゆる安定化会談。ポーランドはそのときソヴィエトの影響下に引き渡された)。
AKの印のもと戦った、いまも存命中の蜂起者を評価するには俺は若すぎるが、しかし彼らの側からすれば膨大なヒロイズムのことを言わないわけにはいかないし、蜂起者・詩人カミル・バチンスキ Krzysztof Kamil Baczyński とガイツィ Tadeusz Gajcy の詩について考えないわけにはいかない。この英雄的精神は幸い、ワルシャワで記念日関連のコンサートや他の催しに参加している今日の若者たちも評価している。
しかし、俺やその他のもう少し年輩で歴史に自覚的な人たちは、AKのワルシャワ蜂起者たちが戦ったのは自由なポーランドを求めてであって、自由なワルシャワだけを求めたわけではないと知っている。だが当時、1944年8月、ヴィスワ川の対岸には赤軍がいて、遠くから戦闘を眺め、その後、徹底的に破壊される街を、空爆を、住民の殺害を見物していたのだ。彼らは一歩たりとも動かなかった。だがそれでよかったとも思う。我々は彼らに何一つ感謝する必要はないのだから。
その後、我々の将来を形作ったのがテヘランとヤルタの三首脳会談* [テヘラン会談とヤルタ会談] であった。こうしてポーランドは我々国民の同意なしにソヴィエト圏に組み込まれ、ほぼ半世紀に渡る破滅に向かった。
そして俺や俺の同国人のうち自覚的な人たちはこの年月、精神的にも肉体的にも苦しんだのである。
*三首脳―ルーズベルト、スターリン、チャーチル(テヘラン、その後ヤルタにおける、いわゆる安定化会談。ポーランドはそのときソヴィエトの影響下に引き渡された)。
by nagamimi_2
| 2009-08-02 21:00
| 歴史