2009年 05月 29日
輸送 |
以前ブラツカ通りの荷車について書いたが、自分に関しても本当のことを言わなければならない。1978-80年に俺は国営(なんと!)企業「トランスブト Transbud」で運転手として働いていた。ソ連製のクラズ KRAZ やカマズ KAMAZ、 ポーランド製の「イェルチ Jelcz」トレーラーといったトラックを運転していたのである。
当時特徴的だったのは、国営企業の荷物を輸送中、路上でしょっちゅうだれかに引き止められたことだ。そういうときは止まらざるを得なかった。それが私服の密告者によって行われる合法的な検問ではないかどうか決してわからなかったからだ。しかし、しばしばそれは、まったく私的な「お客」であることが判明した。彼らは「俺の」砂か砂利を自分たちの私的な建設工事用に運んでくれないかと提案するのだった。
俺の月給は当時4万5000ズウォティ以下で、ポーランドでは普通だった。他方「お客」はダンプカー1台分の砂代として俺に3000ズウォティを支払った。こうした誘惑を退けるのは難しく、個人の建設工事用に一日のうち数回も砂を運んでやったことがある。これによって愛すべき保護者たる国が提示していた給料の数倍も稼ぐことができた。
もちろんこれは輸送中の検問の危険と結びついていたのだが、つねに問題はしかるべき賄賂によって解決した。それを支払っても自分の金はそれほど減りはしなかった。
プロの仕事のほか(運転は夜中だった)、昼間は中央広場に出かけ、PKO SA銀行の前でドルその他の外貨を売買していた。いわゆる他の人民共和国諸国では、この行為は数年間の懲役刑を科せられる恐れがあったが、ポーランドではそれはなかった。公式には厳しく罰せられることになっていたが、実際、人民共和国政府はこの取引に寛容だったし、そのうえ社会的にはこっそり受け入れられていた。
その理由はこうである。政府は普通の店への食料品(や建築資材さえも)の正常な納入を確保せずに、それらの商品を「ペヴェクス」、すなわちドル取引の店に横流ししていた。こうして一般社会は外貨の売買人を自分たちに善いことをしてくれる人と見なしていた。警察(当時は民警)は彼らを、犯罪界に関する基本的情報源と見なしていた。我々のだれもがこの「協定」に加わったわけではない。例えば俺の場合は戒厳令の際の勾留で終わった。これは悪名高くも警察に「協力」しなかったことに対する、警察からの公式な復讐であった。
当時特徴的だったのは、国営企業の荷物を輸送中、路上でしょっちゅうだれかに引き止められたことだ。そういうときは止まらざるを得なかった。それが私服の密告者によって行われる合法的な検問ではないかどうか決してわからなかったからだ。しかし、しばしばそれは、まったく私的な「お客」であることが判明した。彼らは「俺の」砂か砂利を自分たちの私的な建設工事用に運んでくれないかと提案するのだった。
俺の月給は当時4万5000ズウォティ以下で、ポーランドでは普通だった。他方「お客」はダンプカー1台分の砂代として俺に3000ズウォティを支払った。こうした誘惑を退けるのは難しく、個人の建設工事用に一日のうち数回も砂を運んでやったことがある。これによって愛すべき保護者たる国が提示していた給料の数倍も稼ぐことができた。
もちろんこれは輸送中の検問の危険と結びついていたのだが、つねに問題はしかるべき賄賂によって解決した。それを支払っても自分の金はそれほど減りはしなかった。
プロの仕事のほか(運転は夜中だった)、昼間は中央広場に出かけ、PKO SA銀行の前でドルその他の外貨を売買していた。いわゆる他の人民共和国諸国では、この行為は数年間の懲役刑を科せられる恐れがあったが、ポーランドではそれはなかった。公式には厳しく罰せられることになっていたが、実際、人民共和国政府はこの取引に寛容だったし、そのうえ社会的にはこっそり受け入れられていた。
その理由はこうである。政府は普通の店への食料品(や建築資材さえも)の正常な納入を確保せずに、それらの商品を「ペヴェクス」、すなわちドル取引の店に横流ししていた。こうして一般社会は外貨の売買人を自分たちに善いことをしてくれる人と見なしていた。警察(当時は民警)は彼らを、犯罪界に関する基本的情報源と見なしていた。我々のだれもがこの「協定」に加わったわけではない。例えば俺の場合は戒厳令の際の勾留で終わった。これは悪名高くも警察に「協力」しなかったことに対する、警察からの公式な復讐であった。
by nagamimi_2
| 2009-05-29 21:00
| 歴史