2010年 01月 26日
とても興味深い問題―ハイチのポーランド人 |
大地震のため、いまやあらゆるメディアでハイチのことが話題になっている。2、3日前テレビで耳にしたのだが、ポーランドの救助隊はハイチで賓客のように歓迎された。
またハイチでは、ハイチ国籍を望むポーランド人にそれを与える法律が今日まで強制力を有しているらしい。そしてまた、ポーランド人は白人の外国人として唯一、ハイチの土地を購入する権利を有し、土地所有者として入植する権利を持つという法律が存在するという。しかしそれ以上の説明はなかった。
このことが気になっていた。これには何か歴史的な理由があるはずなのだから。そんなときゾフィア・ピンチナト-ヴィトゥツカ Zofia Pinchinat-Witucka―ポーランド人女性とハイチ人男性の娘―のインタビューを読んだ。まさしく彼女がこの話題に触れていたのだ。残りはGoogleで見つけた。
1797年、コシチューシコ Kościuszko の蜂起が潰えたあと、ヤン・ヘンルィク・ドンブロフスキJan Henryk Dąbrowski 主導、〈アゲンツィヤ Agencja〉―この目的のためにできた組織―の仲介で、フランス人たちの手で北イタリアにポーランド軍団が組織された。
またこの年にユゼフ・ヴィビツキ Józef Wybicki がのちに「ドンブロフスキのマズルカ」として知られることとなる軍団の歌を書いた。この歌は20世紀に入ってポーランドの公式国歌となった。
軍団はナポレオン側で多くの戦闘に勝利したが、敗北もあった。軍団全体では約3万5000人のポーランド人が闘い、うち約2万人が非業の死を遂げた。
1801年、オーストリアはフランスと講和条約を結んだが、それでポーランド問題が解決したわけではなかった。失望した軍団兵士らが公然とフランスとナポレオンを非難したため、厄介な軍は捕虜の反乱を鎮圧しにハイチ(当時のスペイン領サントドミンゴ)へと送られた。
これは逆説的なことだが、ポーランド人はみずからの自由を求めて闘いながら、別の国民の解放運動をナポレオンに雇われて鎮圧していたのだ。しかしながら事はそれほど明白ではなかった。ポーランド人将校と兵士の大半は、反乱軍の革命兵士に味方し、その後ハイチに住みついたのである。
彼らは結婚し、子供が生まれた。その結果、現在かなりの人数の黒い肌をした地元民が、自分はポーランド人であると主張している。なぜなら曾々祖父がポーランド人だったからだ。そしてこれはどこにも明文化されていないにもかかわらず、国籍と土地というポーランド人のための特権が、かつてのハイチ革命への支援の結果であると考える権利が俺にはある。
ゾフィア・ピンチナト-ヴィトゥツカは、自分のポーランドでの子供時代には、路上でもどこへ入ってもしつこく興味を持たれて当惑したと回想する。自分が見えなくなればいいと夢見ていたし、今日まで過度にカラフルな物は決して身につけない。
現在コスタリカで暮らす父親の所へ行ったとき、ようやく幸せを感じた。だれひとり自分のことをじろじろ見なかった。自分は皆と同じだったのだ。皆と違うことがいかにまずいかを知るには、自分でそれを体験しなければ、と彼女は言う。
俺は三度体験した。日本に三度行ったことがあるからだ。いつもひとりで日本人に囲まれていたが、不快感はまったくなかった。何もかも正常だった。今ではポーランドも正常になったが、1960年代には黒人が通ると通りにいた全員がぽかんと見とれていたのを憶えている。彼らの大部分は生まれて初めて生きた黒人を目にしたのだ。それも近くで。
またハイチでは、ハイチ国籍を望むポーランド人にそれを与える法律が今日まで強制力を有しているらしい。そしてまた、ポーランド人は白人の外国人として唯一、ハイチの土地を購入する権利を有し、土地所有者として入植する権利を持つという法律が存在するという。しかしそれ以上の説明はなかった。
1797年、コシチューシコ Kościuszko の蜂起が潰えたあと、ヤン・ヘンルィク・ドンブロフスキJan Henryk Dąbrowski 主導、〈アゲンツィヤ Agencja〉―この目的のためにできた組織―の仲介で、フランス人たちの手で北イタリアにポーランド軍団が組織された。
またこの年にユゼフ・ヴィビツキ Józef Wybicki がのちに「ドンブロフスキのマズルカ」として知られることとなる軍団の歌を書いた。この歌は20世紀に入ってポーランドの公式国歌となった。
軍団はナポレオン側で多くの戦闘に勝利したが、敗北もあった。軍団全体では約3万5000人のポーランド人が闘い、うち約2万人が非業の死を遂げた。
1801年、オーストリアはフランスと講和条約を結んだが、それでポーランド問題が解決したわけではなかった。失望した軍団兵士らが公然とフランスとナポレオンを非難したため、厄介な軍は捕虜の反乱を鎮圧しにハイチ(当時のスペイン領サントドミンゴ)へと送られた。
これは逆説的なことだが、ポーランド人はみずからの自由を求めて闘いながら、別の国民の解放運動をナポレオンに雇われて鎮圧していたのだ。しかしながら事はそれほど明白ではなかった。ポーランド人将校と兵士の大半は、反乱軍の革命兵士に味方し、その後ハイチに住みついたのである。
彼らは結婚し、子供が生まれた。その結果、現在かなりの人数の黒い肌をした地元民が、自分はポーランド人であると主張している。なぜなら曾々祖父がポーランド人だったからだ。そしてこれはどこにも明文化されていないにもかかわらず、国籍と土地というポーランド人のための特権が、かつてのハイチ革命への支援の結果であると考える権利が俺にはある。
ゾフィア・ピンチナト-ヴィトゥツカは、自分のポーランドでの子供時代には、路上でもどこへ入ってもしつこく興味を持たれて当惑したと回想する。自分が見えなくなればいいと夢見ていたし、今日まで過度にカラフルな物は決して身につけない。
現在コスタリカで暮らす父親の所へ行ったとき、ようやく幸せを感じた。だれひとり自分のことをじろじろ見なかった。自分は皆と同じだったのだ。皆と違うことがいかにまずいかを知るには、自分でそれを体験しなければ、と彼女は言う。
俺は三度体験した。日本に三度行ったことがあるからだ。いつもひとりで日本人に囲まれていたが、不快感はまったくなかった。何もかも正常だった。今ではポーランドも正常になったが、1960年代には黒人が通ると通りにいた全員がぽかんと見とれていたのを憶えている。彼らの大部分は生まれて初めて生きた黒人を目にしたのだ。それも近くで。
by nagamimi_2
| 2010-01-26 23:55
| 歴史